その38

 

1度だけ  

 

 

 1度だけの関係。 そういう事をした人がいる。 

 一般的に言ったら、それは「体だけなんでしょう?」って事になるんだろうけど。 そうでは無かったような気がする。 あくまで「気がする」。 今更、もう確かめ様が無い。

 

 あの夜、私はお酒に浮かれていた。 酔っていたわけでは無いと思う。 浮かれていたのだ。 だって未だに、あの日の夜のことは細かく覚えている。 匂いだって思い出せる。 だから酔っていたわけでは無い。

 

 私はあの人が好きだった。 愛してはいなかったけど、好きだった。彼の家のソファの上で、浮かれてジャレ合うのは楽しかった。 お互いの腕を引っ張り合ったり、力を抜いたり。 子供のときにやった「ふねこぎ」みたいな感じ。 2人で力を入れたり、抜いたり、入れたり・・・。 私の引く力が弱くて、バランスを崩して。 2人の体が重なる。 それが可笑しくて、そのままの状態で笑い合っていた。

 私の上で上下する胸。 笑いながら吐き出される息。 耳に響く2人の笑い声。 周りを包む闇。 しっとりとした夜。 なんども忘れたようにリピートされる音楽。

 

 急に、喉が乾いて、それを口に出そうとした。 ここは彼の家で、初めて上がった私は、キッチンの場所すら分っていなかった。

声を発しようと口を開いた瞬間に、彼の口が私の口に重なった。

 

「あれ?」

 

何か、間違えたのかと思った。 何かの拍子に首の力の抜けて、頭が支えきれなかったのかと思った。 彼が私を欲するなんて思いもしなかった。 またこの顔が上がったら「間違えた〜」と言いながら笑い出すものだとばっかり思った。

 

「それにしても」

 

 彼の唇は気持ち良かった。 暖かくて、湿っていて、そこだけ別に生きているみたいに私に向かって立ちあがってくる。

 

「もうちょっと」

 

 この感じを楽しみたい。 と思った。 私は、自分の唇を立ち上げることでその意志を伝えた。 彼のからだが少しだけビクッとした。 もしかしたら現実に戻りたかったのかもしれない。 でも、唇と唇は、もうすでに「始まって」いて。 体はそれに引きずられた。 意志すらも。

 

 翌日、彼は海外に旅立っていった。 いつ戻るのかは分らないと言った。 空港へ向かうバスに一緒に座っているときに、彼は「なぁ、一緒に行かないか?」と聞いてきた。

 私が、そのとき旅支度していないのは一目瞭然でわかっていた事。 それになにより、パスポートなんて持ってきているわけが無かった。 私は、それを、彼の優しさ。 一種の礼儀として受け止めた。

 

 「ありがとう。 でも行かない」

 

 彼は、ちょっと寂しそうに笑って「そっか、そうだよな」と言った。 それきり、出国手続きをする地下に下りるまで、ほとんど口をきかなかった。

 

 1人きりで成田空港の外に出たとき。 ものすごい寂しさに襲われた。 その場でしゃがみこんで大泣きできたらどんなに楽かと思った。体の中に充満した気持ちは吐き気になった。 立っているだけがあんなに辛いと感じたのは初めてだった。

 自分で自分に言い聞かせた「1人になったら、思い切り泣こう。 今は我慢して、1人の部屋に帰ったら、思いっきりこの気持ちを吐き出そう。」、まじないのように繰り返し、歯と歯を合わせバスの中を耐えた。

 

 やっと・・・1人の部屋に戻り、さぁ・・・泣くぞ! と息を吸いこみ声とともに吐き出そうとした瞬間・・・。 目の前に鏡があった。 その中に写る私の顔はひどいものだった。 息を思いきり吸ったために広がった鼻、中途半端に開かれた口、寝不足の目。

 

 次の瞬間、出てきたのは嗚咽ではなく笑い声だった。 なんだか、あんまり悲惨で可笑しくなっちゃったのだ。 大声で笑った。 その笑い声がどんどん細くなり、最後にちょっとだけ泣いた。

 

 もうこういう事をするのは止めよう。 するとしたら、キチンとできる自信が持てるようになってからにしよう。 と。

 そんな自信は、一生持てないのかもしれないけど。

 

 

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